癒しの痛み

<Emmery Annexの過去ログ>

自分癒しの旅を始めて、かれこれ7年ほどになる。
どうして自分の傷に塩をすりこむようなことをするの?
と何度言われたか分からない。
ただ1つ言えることは、自分が抱える問題を直視することなしに癒しが始まることはない、ということ。
自分と向き合うことほど大変でしんどいことはない。
問題なんてどこにもないよ、と見て見ぬふりをしている間に時間薬で問題が消え失せることはない。消え失せたように見えて、心の奥深くで秘かに潜伏し続けている。
そしてある日突然、何かをきっかけにその問題が表面化する。直接的に表面化しなくても、実のところ、別の形でずっと表面化しているのかもしれない。

癒しの為の心の準備ができた時に、閉ざされていた心の扉が開くこともあれば、突然開いてしまって、その勢いの激しさに再び自分で閉じることができずに覚悟を促されることもある。ただ、本人が意識していようがしていまいが、自分の問題に取り組む心の耐性がついた頃、このプロセスが始まることが多いように思う。

癒しのプロセスが始まる時に体験する苦痛は、ただものではない。
結果として自分を変えていく痛み。
新しい自分を生み出すための陣痛、と言えるかもしれない。

どうして癒すために痛みを体験しないといけないのか?
それまでも、おそらく苦しんできただろうに、癒しのためにまた痛みを感じるなんて理不尽だ、と思うかもしれない。

自然治癒してしまう小さな傷もあるだろうが、癒される必要のある傷を自覚する
ことなしに癒しは始まらない。
自分の問題と向き合う作業は苦痛だ。でもその苦痛なしに癒しはない。
ずっと苦しい訳じゃないということを、どこかで分かっているし、信じているから耐え、乗り越えられるのだと思う。

今でも時々、私も思うのだ。
一生、見て見ぬふりをしてやり過ごすことができるなら、それにこしたことはない、と。
一生、見て見ぬふりができるなら、自分をごまかし続けることができるなら、そうやって一生をやりすごすことができるなら、それはそれで構わない、
と思う。傷は必ず癒されなくてはならない、とも思わない。
今の人生で、全ての課題を終える必要もないし、そのように迫られてもいない。
ただ、生まれ変わってもう一度同じ課題を繰り返すのが嫌だ、と思うなら、リキ入れて取り組む必要はあるだろう。

一度、癒しのプロセスが始まると、ある程度のレベルになるまで、まるで嵐に巻き込まれたかのように止めることができないように思う。
そしてある日、ふと、落ち着いた時に気づくのだ。
苦しい苦しいと思いながらも自分が偉業を成し遂げてきたことを。
そしてそれは、らせん階段をのぼるようにぐるぐると続いていくプロセスであり、苦しいながらも自分は一段一段、確実に上へと進んでいることを。
プロセスの中で、時折、階段から足を踏み外して転がり落ちることもあろう、のぼるのに疲れて座り込んでしまうこともあろう、それでも時が来たら、また立ち上がり、階段をのぼっていくのだ。

月の月17日 KIN148/芸術を命じる 黄色い倍音の星