弱い自分を認めるということ

<Emmery Annexの過去ログ>

少し前に「心に傷を負った人はどうやって癒しの道に入るのですか?」
という質問を受けました。
「心に傷を負った→カウンセリングを受けに行く」なんていう図式は簡単になりたちません。そこに至るまでには長いプロセスを経る人が多いと私は経験上感じています。

私の場合、何がキッカケだっただろう?と思い返していました。
無いものとしてずっと目を逸らしてきた自分の傷を傷として認め、痛いものはやっぱり痛いと認めたのがキッカケでした。傷と認めることで、やっと傷を癒そう、という気持ちになるのです。本人が傷を傷と認めない間は、真の癒しは始まらないのではないかと思っています。

そんなことを考えていたら、少し前に紹介したばかりの雑誌「リンカラン」の由井寅子さんの記事に大変共感を覚えました。
少々長いですが、特に共感した部分を抜粋します。

(人生で起こった障害に対して)どれだけ根に持ったか、恨みに思ったか、どれだけそれで私は悩んで悔しがったか。で、またそれで自己卑下したか、どれだけ罪悪感にさいなまされたか。それでどん底まで落っこちて、2、3日して、「さぁ、進んでいこう」と終止符を打てるかどうか、この切り替えが大事。
中途半端な切り替えはいけません。(中略)キレイ事じゃなく正直に、湧き上がった気持ちを認識することから始めます。原因は外にはなく、ゆえに答えはそとにないの、答えは自分の中にあるからね

だからホントに心底落ち込んだ場合は、ごまかしは利かない、苦しい。
このときが、あなたが変容するときなんだ。変わるにはね、やっぱり腹の底から苦しむこと、悔しがることが大事。キレイな言葉で『人間だから人を恨んではいけない』なんてことを言っているようじゃ、その人はたぶん変容することはできないだろう。自分が自分自身を認識して変わっていこうと思うならば、やっぱり自分の悪い癖や、傷ついたところを昔から直さずにきている、目を逸らしてごまかしてきた部分のふたを開け、早いうちにそこから這い上がって一歩一歩、歩くことですね。
(中略)
私たちは、人間の言葉、態度-人間に傷つくわけですよ。だって私たちのなかに人間としてもこだわりがあるから。だから人間が本当に救われるには、人間が必要なんですよ。生きるということは共鳴の連続なんですね。あなたのなかにないものにあなたが心動かされることはない。そして心乱されるとき、それはたった一つの気づきのチャンスなんです。自分自身を知る、自分自身を見るチャンスなんです。
(中略)
こだわりの自分を知る、認めるというのは、つらいけど、この道はあなたを間違いなく本来の自分、自然である自分へと導いてくれるんですね。憎かったあの人がありがたい人に反転する道なんです。

傷ついた自分、痛みを抱えた自分から目を逸らさず、痛いものは痛いと認め、自分を傷つけた人に対して膨大な怒り、恨みを本人に対して爆発されたことはありませんが、いろんな方法で表現してきました。マイナスな部分を表現しても共鳴してくれる人たち、共鳴できる人たち、共鳴しあう人たちに出会い、人によって傷つけられたけど人によって救われました。今でも時々、痛みますし怒りも出ます。でも、それを否定せずに受け入れ、乗り越えられるようになりました。
あの出来事がなければ、こんなblogを書く私は存在しなかった。
私を傷つけた人に「ありがとう」とは、やっぱり言えないけれど、でも今の私を導くきっかけを作った「ありがたい人」に反転したことは確かです。

最後にもう一つ、この記事の中で一番気に入った言葉を。
「弱い個性を出せる人は、実は強いのです」
それは、自分の心と対話できているということだから。

律動の月17日 KIN260/生命を越える 黄色い宇宙の太陽