写実の匂い

>内田先生のブログ日記を読んで感心して、書こう書こうと思っているうちに
1ヶ月以上過ぎちゃったこと。

内田先生が写実主義の磯江毅さんの展覧会に行った時の日記
磯江毅さんの展覧会に行く」に、絵を見た感想として

写実絵画からは腐臭がする。
どうしてかしらないけれど、写実が端正で緻密であればあるほど、
そこに描かれているものから腐臭や屍臭に似たものが漂ってくる。


と伝えたところ、磯江画伯が

写実主義の絵画には時間が塗り込められていますから。」

とおっしゃったらしい。
この「時間が塗り込められている」という言葉に妙にひっかかったのでした。

今回出品されていた中に、制作に一月かかった葡萄の絵があったらしい。
1ヶ月もかけて制作していたら、葡萄は当然腐ってしまう。
知り合いには写真を撮っておいて、それを見るって人もいたけど、日記には
腐ってどんどん形態が変わってしまっては写生できないので、腐った葡萄の粒を
もぎ棄てて、買ってきた似たかたちの葡萄を粒を接着剤で貼り付けて、続きを描く。
描き終わったときには、描き始めたときに描いた葡萄はもう一粒も残っていない。
絵に描かれた葡萄のかたちは瑞々しいのだが、最初に皿の上にあった葡萄はすべ
て腐って、画架の前から姿を消してしまったのである。

と書かれている。

絵に生命力が宿る代わりに元のものは朽ち果ててしまう。
絵の中では永久の命、でも、本来のものはすでに朽ち果てこの世のものではない。
極なんやな、なんて思ったりしたのであった。

私は写実絵画を見て、腐臭や屍臭に似たものが漂ってくるなんて風に
感じたことはないけれど、妙な生々しさというか、今なんだけど過去、
それも凝縮(圧縮かな)された時間、瞬間なんだけど時間に幅があるような、
でも無風地帯のような、そんなものを感じて、ゾクリとしたりする。
なんとなく見ていて息がつまるような感じとでもいうのかしら。
その理由は、絵画に時間が塗り込められているかららしい、
ということがなんとなく分かったような気がした。
そして妙に感心したのでした。

でも、子どもの頃は、写実主義の絵が好きだった。
見たそのままで良かったから。
なんでこんなに写真みたいに描くことができるのだろう。
そのことで頭がいっぱいだった。


今は、抽象画というか、なんとなくパッと見て分かるような分からないような
見ている側が何とでも解釈ができるような絵が好き。
そんな絵の方がキャパシティが広いような感じがする。
訳が分からない、ぐちゃっとしたものが特に好き。
頭の中を刺激して、挑戦してくるような気がするから。