「知識」じゃなくて

仕事の休憩時間に内田先生のブログ日記にアップされていた「新学期のご挨拶」を読んでいて、久しぶりに、こう、なんやすかーっとする何かを感じた。
頭の中がウニのようになっているから、内田先生のソリッドなテキストを読んでいると脳細胞が良い感じに分裂していってとろけていくような快感が得られる。

詳しくは、「新学期のご挨拶」を読んでいただきたいのだけど、私が気に入ったのは、

内田ゼミは、基本的に一問一答のクイズ形式でフォーマットされている「知識」を得るためのものではない。

人生の岐路めいたところや実生活で遭遇する問いは、一問一答形式で記憶することができるほど単純なものではなく、「答えがもともとない問い」と「答えがまだ知られていない問い」だけである。

「答えがもともとない問い」というのは問いに対してどのように答えてもすべて「誤答」として処理される問いのことで、こんな問いに対しては、「知識」ではなく「術」(ここでは「ひとはどのような文脈において『答えのない問い』を発するのか?」というふうに問いの次数を一つ繰り上げる)を以て応じるしかない。

「愛って、何かしら?」
「大人になるって、どういうことなんだろう?」
といった、
問いを差し向ける人もその問いの答えを知らないし、その答えを相手から
いますぐ即答されるとも期待していない「答えがまだ知られていない問い」に対しては、「さあ、どうなんだろうね?」と少し傾けた笑顔を向けてから、ふたりで朝日(夕日でも可)に向かって眩しそうに瞬きするのが長者の風儀である。

そして、「ゼミでは、このようなさまざまな「答え方がわからない問い」に
どのように対応するのかをお教えする。」とある。

幼い頃から、「博識」、「博学」というものに憧れてひたすらお勉強に励んできた身の上としては(オトナになった今でも、そういう部分は十二分に残っているのだが)「知識」とは基本的に一問一答のクイズ形式でフォーマットされているものなんて言われた時点で、クラクラしてしまう。(素敵☆という意味で)
受験勉強って知識ばっかり問うものばかりで、知識さえあれば何とかなるって若い頃は思いこみがちなのかもしれない。
でも、知識ってそれだけでは底が見えてしまうもののような気がする。
だから私は、底が見えないように知的武装の構えばかりをしてきたような、そんな気がする。
そして、外見の良さよりも知性が欲しいって思ってた。(今も、そう思っている風情あり。)

いやぁ、内田ゼミの生徒が羨ましいなぁ。
もし私が大学生だったなら、と、思うけれど、いろんな体験をして学んできた今だからこそ、内田先生のテキストにハマることができるのでしょう。
本気の学生時代に出会っても、きっと興味を示さなかったに違いない。