引き裂かれる私

内田センセの「女は何を欲望するか?」を読んでいる。
前半の「フェミニズム言語論」で、言葉は性化されていると言うが、本当にそうなのか、「女として語る」は可能なのか、などなど、アメリカで英語を使って女性学を勉強した時の経験から感じていたことを思いめぐらしていたのだけど、読了する前に、小倉千加子中村うさぎの対談集「幸福論」を読み始めてしまったら、別の頭になってしまいましたわ。

「幸福論」もまだ途中なんだけど、なかなかおもしろい。
母から娘へのメッセージが、「男の子にも負けるな。クラスで一番になれ」と言っていたのが、あるときから「男の人に上手に負けなさい」に変わる。
つまり、自己実現での勝ちを応援していたのが、女性としての勝ちを優先させろ、
に変わってしまう、というあたりは、まさに私が体験してきたことだから、
そうなんだよなー、って思ってしまった。

女の子は12歳くらいから、そうやって引き裂かれる体験をして、どちらを選んでも「生きられなかったもう1人の私」がいる、と。
そう、いつからか「男の人に上手に負けて、女性としての勝ちを優先させる」ことが大事とされるようになる。

どんなに勉強して良い成績を取って、良い学校に入っても、女子の場合、どこかの段階でそれが褒められなくなってしまう。
学生の時は、勉強することが一番で男女交際は罰せられていたのに、逆に奨励され、彼氏がいないとかわいそうになってしまう。
お化粧をすることが禁じられていたのに、化粧することが標準になる。
1年以上前に「戸惑うこと」ということで書いてるけど、周囲からダブル・メッセージを受けながら私は今も戸惑い続けてる。