身につまされたこと

帰宅してから朝刊を読んでたら、なんだか身につまされる記事があった。
社保庁、年金相談急仕立て 増員は素人派遣頼み

やっと電話がつながったと思ったら、年金記録の相談に応じるのは素人の派遣社員
と、記事の冒頭にある。

何か不祥事があって、コールセンターが増設されたのを知るたび、オペレーターとして増員された人たちの8〜9割方、下手したらほぼ全員が昨日までは全然関係ないところにいた素人で、たいした研修も受けずにいきなり現場に放り出された人なんだろうなと思う。
そんな人たちは電話をかけてくる人、それも大半が不満を持ってかけてくる人を満足さえることができるような対応なんて、できやしない。その上、バックアップ体制も整ってなくって八方ふさがりなんじゃないか、そして本来謝るべき人が謝らないで裏でぬくぬくしていて、関わりのない時間で雇われた人が身代わりになってひたすらクレームを聞いて謝っている。想像するだけで(いや、本当は想像もしたくないのだが)イタイ思いをする。

ほんの一時だったけど、かかってくる電話の8割に対してただ謝ることしかできない仕事をしたことがある。何回もかけて、もしくは何時間も電話を鳴らしっぱなしにして、やっとつながったのに解決を提供できない、というのはやってて虚しかった。でも、お客様に声を聞かせて存在をアピールすることが目的と言われ、確か2週間程度の期間限定で、毎日でもなかったし、周りは気心しれた仲間たちで助け合いもできたし愚痴もこぼしあえたから大丈夫だったけど、朝から晩まで毎日、やっとつながったと思った人に対して、ただひたすら謝ることしかできない仕事なんて、どこかを麻痺させなければ続かないと、少なくとも私はそんな風に思う。

ま、そんな話で終わらせても仕方がないので、話題転換。
内田先生のブログ日記「Who is to blame?」を読んだ時、
別な意味で身につまされたのだった。
(とても良い記事なんでゼヒ読んでね。)

行楽地のゴミ捨て場でもない場所にゴミの山ができるキッカケは空き缶一つだったりするということを例に出しておられる。

公共の場所にゴミをすてることがシステムを「汚す」ネガティヴな行為であることはわかっているので、何もないところにゴミを捨てる根性はないけれども、一つでもゴミが落ちていれば、ほっとして捨てる。
それは、自分より先にそれをした誰かがいた場合には、
「私が来るより前から『こんなふう』だったんです。私はトラブルの起源ではありません」とエクスキューズして、自分より先の誰かに「トラブルの起源」を先送りすることができると信じているから。
最初の空き缶をとおりがかりの誰かが拾えば、それでゴミの山の出現は阻止できたはずなのだけど、
「なんで、オレがどこの誰だかわからないやつの捨てたこきたねえ空き缶を持ち返らなきゃいけないんだよ!」と怒気をあらわにすることが「合理的」であるという判断にほとんどの人が同意するがゆえに、「一個の空き缶」で済んだものがしばしば「ゴミの山」を結果する。

今回の社保庁の事態は、「前任者のしたミスの後始末をなんでオレがしなくちゃいけないわけ?」という不満に理ありとする態度が生んだのだと。

「誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人たちをひとりずつ増やす以外に日本を救う方途はないと私は思う。
そんな風に内田先生は書いておられる。
今の日本は、責任者追求に明け暮れて対応する人がいない。

そしてふと、私自身は、「誰の責任だ」という言葉を慎み、
「私がやっておきます」という言葉を肩肘張らずに口にできるような大人か?
もしくはそんな大人になれるだろうか?と思った。

今の仕事は、いろんな国の人たちの手を介して進む。
小さなミスや不備は、気づいた者、声をあげた者負けみたいなところがある。
「負け」と書いたらいけないか。気づいた者が対処すべし、かな。
前の行程のミスや不備が明らかで差し戻しができることもあるけれど、
たいていの場合はどこの誰かがやらかしたミスの尻ぬぐいを気づいた者がやる、
それも大半は無償で。気づけば気づくほど、仕事が増える。
え?そんなこと気づかなかったわ、で、スルーできないこともないのだろうけど、
そんな風に「トラブルの起源」を先送りする風潮は幸いなことに私の会社には今のところない。「誰の責任だ」という言葉を慎み、「私がやっておきます」という訓練みたいなものを毎日のようにやっているんだな、と思った。でも、「気づいた者負け」なんて書いている私は、「前任者のしたミスの後始末をなんでオレがしなくちゃいけないわけ?」という不満をもつことが合理的と心底で思っている子どもなのだろう。