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勝手に内田的恋愛論その3

何回続くんだか分からない状態で書いている我がヴァーチャル師匠
内田先生の「先生はえらい」を元ネタにした「勝手に内田的恋愛論」、
今回は第三回目。

本日は「オチのない話をしてしまう理由」とは。

私個人は大阪人として、話にオチがないと据わりが悪くてどこかモゾモゾしてし
まうので、何が何でも話にオチをつけたがるところがあるのですが、それでも
オチがつけられない話をしてしまう、ということがあります。

内田先生によりますと、「話にオチがつけられない」というのは、そのエピ
ソードがどういう意味を持っているのかを説明することばを、あなたは
それまで持っていなかったということ
、なのだそうです。
でも、「だから、どうなんだ」「それがどうしたの?」というような
エピソードが、実は私たちのその後の人間関係やものの考え方感じ方を
決定づけた経験だったりする
のだそうです。

大阪人でなくても、たいていの場合、オチがつけられない話はつまらなそうな顔
をされますから、あんまり他人に対してすることはないと思います。
でも、親友や恋人か、とにかくそれまでとはずいぶん親しさの度合いの違う
聴き手を得たときに、不意に「オチのない話」を思い出します。


いっしょにいると「オチのない話」を次々に思い出してしまう相手のことを
「親友」とか「恋人」とかと呼ぶのです。)

あなたがその「オチのない話」を思い出したのは、自分が何者であるのかが、
この人に話しているうちにわかりそうな気がしてきた
からです。
なぜそのことを今まで忘れていたのか、その理由がわからない過去のエピソード
などが、自分が何者であるかを教えてくれる鍵
なのだと。

あなたが「自分はほんとうはどういう人間なのか」を思い出したのは、あなたが
「自分はほんとうはどういう人間なのか」を知ってほしい人に出会ったからです。


内田先生いわく、相手がないときに、自分のことを考える人間なんていのだそう
です。相手がいなくても自分一人でも考えている、という人がいるかもしれません。
自問自答したり一人でノートに何か書き付けたりなんかしてね。

でも、小説とか手紙とか日記とかいうものも、やっぱり「相手」がいる
書き物ですよ。

いくらひとりで書いていたって、「読み返す」というプロセスが介在する限り、
そこで「読んでいる人」は機能的に「書いている人」とは別人になるほかないの
です。

と内田先生もそのように書いておられます。

その感覚はよく分かりますね。
blogでどんな自分語りを展開しても、どんなに赤裸々に書いていたとしても、
書いている私とは別の私がチェックしていますものね。

人間が自分について語ることができるのは相手がいる場合だけ。
そして「相手がいる」ことを想定しないと、何もできない。
それが人間です。


うーん、本日はなにやらマジメというか、恋愛風味が少なくなってしまいました。
ついでにオチなしで今日のところはおしまい、と。