展望台にて

いつから読み始めたか分からないけど「宝島」という雑誌が好きだった。
キャプテンレコードナゴムがあったバンドブームとも呼ばれた
あの時代のB級雑誌だった。
中でも一番好きだったのは中森明夫の「東京トンガリキッズ」だった。
1989年12月号で「東京トンガリキッズ」の連載が終わった後、「宝島」は
つまらなくなったと思ったくらいだ。そしていつの間にか買わなくなり、
「宝島」そのものの内容も変わってしまった。

 

東京トンガリキッズ (角川文庫)

東京トンガリキッズ (角川文庫)

 

 大阪大好きの私は、東京というものをありがたがったことがない。

両親が東京勤務の時に生まれた為、
「生まれも育ちも大阪」
と言えないのがとっても嫌だった。
過去形で書いてしまったが、今も嫌なんである。
でも「東京トンガリキッズ」の中の「東京」には憧れたのだ。
「東京トンガリキッズ」の単行本が出た時はソッコー買って、
どのストーリーも諳んじられるくらい読み込んだ。
トンガリキッズ」の中に出てくる「東京」が「私の東京」だった。
大人と呼ばれる年齢に達した今でも東京に行くと「東京トンガリキッズ」に出てくる「東京」と重ね合わせてみようとする自分がいる。

最後の連載で、「さよなら、TOKIO」というストーリーがある。
東京で生まれ育った僕と彼女がささいなきっかけで東京タワーに登るお話。
黄昏の東京タワーに登って、展望台から臨む風景を「青春ドラマのラストだな、しかし、青春ドラマは過去のもので、今、自分が生きているのは再放送の青春ドラマだ。生まれた時から再放送だった」と思い、すべてが終わってから、僕たちは生まれた。もう新しいものなどない。折れ線グラフは頂点を越えた。僕たちはこれ以上、幸福にはなれないだろう。
と語りかける。

1972年に生まれた私はいつも「少し遅くて少し早い世代の子」だと思っていた。
いつも時代の波に乗れない世代。高校生の時に女子大生ブームがあり、大学生になったら女子高生ブームになり、ブームとすれ違ってしまった世代。
バンドブームも大学に入った1991年が最後の年で、バブルもその年にはじけた。
いつも端境の時代を生きてきた、という思いが強い。
80年代の終わり、あの時代はバブルもはじける前の幸福な時だったと思う。
全てが満ち足りすぎていたんだ。
もう新しいものなどない、と思われたが、90年代、そして21世紀に入った今も新しいものは生まれ続け、消費され続けている。
ただ、何を基準に「幸福」とするか、の分かりやすい目安は無くなってしまい、分からないまま「幸福」を追い求め、彷徨う人たちが増えたような気がする。

東京生まれの私だけれど、生後1ヶ月で大阪に戻った為、小学校入学前に母に連れられていった東京が記憶に残る最初の東京で、今でも鮮明に覚えてる。
「どこに出しても恥ずかしくないLadyに育てる為には、何でも体験させる」をモットーに、母はホテルを予約して幼い私と妹を連れて行ったのだ。
ウェスタン・スタイルのお風呂の入り方、枕がいくつもあるベッド、アメリカン・ブレックファスト。。
ホテルの部屋から東京タワーが見えたこと。
東京タワーに登って、マッチ箱のような家やビルを眺めたこと。
コインを入れたらしばらく使える双眼鏡にコインを入れたは良いけど、背が届かなくて青い空しか見えなかったこと。
ルックダウンウィンドウの上にしゃがみこんで眼下を眺めたこと。
幼い私にとって、東京タワー体験は強烈だったようで今でも鮮明に覚えてる。
1970年代の終わり頃で、まだ全てがのどかな時代だったように思う。

あれから25年、久しぶりに訪れた東京タワーの展望台はあっけなかった。
高層というものに慣れてしまったからかもしれない。
幼い日に受けた感銘を再体験することはなかったけど、東京タワーの展望台のそこここに6歳の私がいて、現在32歳の私を見ていた。
25年前と同じくシースルーのルックダウンウィンドウの上に立ち、眼下の風景を眺め、もし今ここで足元のガラスが割れて落ちてしまったら、地面に叩きつけられるまで1秒もかかるんだろうか、その間にやっぱり、走馬燈のように人生を振り返るんだろうか、なんて思った。
シースルーの床の上に立っていたのは、ほんの数秒だったけど透けて見える250m下を眺めながら、いろんなことが頭をよぎった。

「さよなら、TOKIO」の中で、東京タワーに登った彼女は、
「高い所に登ると、なんか飛び降りたい気持ちになっちゃうのね」
と呟き、自分は今も死んでるのも同じだから、飛び降りたって飛び降りなかったって同じだと思った、と言う。
若いから全てが輝かしいとは思わない。私も彼女と同じように思った時期があり、そんな時を越えて今の自分がいる。
見るもの全てが新鮮だった6歳の時の私には戻れないけれど、絶望と隣り合わせのヒリヒリした時代を越えて、まだ新しいことはある、可能性もあると信じて生きていけるだけの強さを得たような気がする。

ジュリーの「TOKIO」が流行ったのが80年、つまり、80年代の幕開けの合い言葉は「TOKIO」だった。そして80年代の終わりに東京タワーは30歳を迎え、TOKIOはひどく疲れ、傷ついているように見える、TOKIOは今も空を飛ぶか?
と、ストーリーの中で「僕」が言う。
80年代の終わりに疲れ切った様相を見せていたかもしれない東京は、21世紀の今、scrap and buildを繰り返し、まだまだ増殖を続けている。
そんな今のTOKIOの姿は、「僕」の目にどんな風に映るのだろう。
ふと、そんな思いにかられた。

「東京トンガリキッズ」の文庫本の表紙写真。
まさしく「さよなら、TOKIO」の写真だと勝手に思いこんでます。