勝手に内田的恋愛論 番外編

今回は番外編。
なんでまた「番外編」なのかというと、元ネタが「先生はえらい」じゃない
という理由です。今回は「子どもは判ってくれない」から。
引用したい内容は覚えてるのだけど、どの本に書かれていたのか思い出せなくて
深夜に内田文庫を片っ端から引っ張り出して探してしまいました。
なんせ、10冊以上あるからねぇ。。
仕事が忙しくて帰宅が遅いんだから、こんなことせずに
早く寝なさいっての。

テーマは「言葉の効用について」、かな。
言葉は、すでにある感情を形容するのではなく、感情表現をすることで
感情が後追いをすることもある。
うーん、「人間は自分が発した言葉に縛られる」でも良いかな。

ま、何でもいいか。
私が書きたいと思ったことってことで。
ほとんどが引用です。


「心の中の感情そのもの」と「身体化した感情表現」とのあいだの関係を、
私は「まず感情があり、それが表現される」という順番では考えない。その二つ
はもっと密接に絡み合っているだろうし、場合によっては「感情表現」が先行して、
「感情」がそれを後追いするということだってあると思っている。


自分にそのつもりがなくても、言ってしまった言葉に縛られてしまうことがある、
ということです。

「愛している」という言葉について内田先生いわく、
私たちはこの言葉をずいぶんと濫用する傾向にある。
私は若いころ、恋人に向かって「愛している」という言葉をあまりにみだりに
口にしている自分の軽薄さを反省したことがあった。そして、思い切って自分の
「内面」を覗き込んでみた。いったいどういう心理的根拠があって、私は「愛し
ている」という言葉をこれほど濫発できるのだろうか調査してみたのである。
覗き込んだ私の心の中には、「がらん」とした空洞が広がっていた。
なんと、私が習慣的に口にしていた「愛している」という囁きにはまるで心理的
根拠がなかったのである(多少の生理的根拠はあったようだが)。
私は若かったので、もう二度とこういう「いいかげんな言葉」を口にするのはや
めるべきだと考えた。
そこで私は彼女にこう告げた。
「君を愛しているのかどうか、ぼくにはよく分からないんだ。でもね、
『君を愛しているかどうかよく分からない』と君に告白するぼくの
誠実さだけは信じてほしい。」
もちろん、彼女は憤然と去ってしまった。
私はここで再び反省の人となった「若いころはよく反省する人間だったらしい)。
そして、気づいたのである。
私は「愛している」という気持ちを実定的に所有していたがゆえに「愛している」
という言葉を口にしたのではない。そうではなくて、「愛している」という言葉
を口にすると、私の身体はそれに呼応するように熱くなり、声が優しくなり、気
持ちがなごんでくる。それと同時に、彼女の声も優しくなり、目がきらきら輝き
始め、肌がなめらかになる。
私は「愛している」という言葉のもたらすその効果を「愛していた」のである。
「愛している」は私の中にすでに存在するある種の感情を形容する言葉ではなく、
その言葉を口にするまではそこになかったものを想像する言葉だったのである。
ことの順番が違うようだが、実はこれでよいのである。世の中というものは存外
そういうものである。だから恋人たちが飽かず「愛している」「愛している」
「愛している」と囁き続けるのは理にかなったふるまいなのである。「もう君が
ぼくを愛しているのは分かったから、別の話をしない?」というわけにはゆかな
いのである。


私の記憶だと「分からない」と言っているうちはいつまでたっても
「分からない」ままだから、それならば「好きだ」「愛している」と
言ってその言葉に酔って恋愛をした方が良いって書いてあるテキストを
どこかで読んだような気がするんだけど。
内田先生のテキストはは本だけじゃなくてブログ日記もあるから、
すごーくいっぱいありすぎて探しきれないな。
ま、いいや。

「好きかどうか分からない」
「愛しているかどうか分からない」
と思って身を引くくらいなら
「好きだ」「愛している」と言って自ら飛び込んでいく方が
きっと人生はもっと楽しくなるはず。

命短し、恋せよ乙女。