ねじれた「やさしさ」

東京出張の前日に毎日通る本屋さんの中古棚で大平健さんの
「やさしさの精神病理」が200円で売られてるのを見て
新幹線のお供に良いかなと買ってしまった。
(実際には一緒に買った「リカちゃんのサイコのお部屋」を持っていったのだが)
なんとなく最近の本かと思っていたら10年前の1995年に発行されたのですね。
当時、話題の本だったと記憶してます。

「やさしさ」と聞くと思い出すのは、有頂天のアルバムにはいつも
「やさしさの時代ですができる限り大音量でお聴きください」
と書いてあったことだ。
(手持ちの有頂天のCDを見てるのだけど、この文言が見あたらない。
ケースに書いてあったのかしら。。)
その文言が書いてあったアルバムは15年は前だと思う。
「やさしさの精神病理」が出る前から、ケラリーノ氏は過剰な「やさしさ」が
気になっていたってことか。

平氏が実際のカウンセリングで体験した、ねじれた「やさしさ」について書か
れている。本が出てから10年たっているので「やさしさ」も当時からまた変容し
ているとは思う。

平氏によると
旧来の語法では、人間関係における「やさしさ」とは、相手が自分の気持を
察してくれ、それをわが事にように受け容れてくれる時に感じられるものでした。
自分が「やさしい」気持になれるのも、自分が相手と同じ心持になった時のこと
でした。いずれの場合も「やさしさ」が双方にとって心地よいのは、自分と
他人の気持のずれがなくなり、一体感が得られるからでした。


でも、今の「やさしさ」は単なる気持ちといった漠然としたものではなく、
言葉で気持ちを伝えたり伝えられたりすることはむしろ御法度。
お互いの心の傷を舐め合う「やさしさ」よりも、お互いを傷つけない「やさしさ」
であり、言葉を発することで相手を傷つけてはいけないと思い、相手を気遣って
黙ってしまう「やさしい暖かい沈黙」、親から小遣いをもらってあげる「やさし
さ」、好きでなくても結婚してあげる「やさしさ」など、新しい「やさしさ」は
具体的で実戦可能。

読んでいて新しい「やさしさ」についてイライラしたけれど、我が身を振り返る
と自分もこの「やさしさ」をやってるなと思った。
特に「暖かい沈黙」を求めている傾向がある。
恋愛、結婚、将来設計の話になると両親や親戚などに立ち入られるのを好まず、
「何を考えているの?」などと問われると私の中に土足で踏み込まれるような
気がしてしまう。そのくせ、心配させたくないからと嫌々ながらもお見合いして
みせるのも親に対する私なりの「やさしさ」。歪んだ「やさしさ」だな

「やさしさ」の文脈が世代間で変わってしまった為、円滑な人間関係を
築くのにお互い「やさしさ」を求め合っているけれども、どこまで行っても
平行線で寄り合うことがなく、ボタンを掛け間違った状態で理解し合えない
「やさしさ」が確かに存在していて、私もその中にいる。

印象的だったのは、バイリンガルの女の子が「やさしさ」について語るとき
日本語になってしまうことだった。日本的微妙な「やさしさ」を表現する言葉が
英語にないからだ。「kind」でも「gentle」でもない、と。
そういえば、アメリカ時代に友人が英語には「甘え」を表現する言葉がない、
と言ってたな、と思い出した。
新しい「やさしさ」の時代、「甘え」はどうなったのかなぁ、と、ふと思った。