恩師

出身大学で専攻していたところの学会で一応、会員をしているのですが、季節はずれのお便りが届きました。

内容を確認したら、私の所属していたゼミの担当教授が昨年末亡くなられたので、追悼会を開きます、というお知らせでした。(名前を出しても構わないのですが、先生のお名前を検索してこのblogに来られる方が増えるのはちょっと、、と思うので敢えて名前は出さず)

ちょうど私の誕生日の一日前に亡くなられたようです。かなりお歳を召されていたので、そのときが来たのかと。調べたら、京都新聞には訃報が出ていました。

ふと、去年のいつだったか、先生についてエントリを書きかけてたなぁ、とPCを起動してみたら、2014年4月に、そのうち書こうと思って「恩師」というタイトルでメモ書きした内容が残っていました。

出身大学の会報が届き、恩師の名前を確認。
名誉教授なので、いろんな委員会の委員長に名前は記載されているけれど、実際に活動している様子なし。

内容をあれこれ頭の中で巡らせていた記憶があるけど、その頃から、先生がお元気かどうか、なんとなく気になっていたんだな。大学卒業してから先生にお会いしたのは、アメリカの大学に編入した頃だったから、もう18年くらい前になりますかね。

備忘録的に、先生との思い出を書いておきます。(これを編集して、追悼集用に送る予定)

四回生の時、もう少し勉強を続けたいけど、当時の日本には、私が勉強したい分野を学べる環境がなく、進路を迷っていました。
先生に相談したら
「ぜひ、海外で勉強しなさい。新島先生もそうやって、アメリカで学ばれたのですから」
と新島先生を出してきて、背中を押してくださいました。(ここの「新島先生」は、同志社大学創立者の新島襄のことです。)

結果、アメリカに行くことになったわけですが、当初は語学留学で、しかも飛び出していったような感じでしたので、行く前に先生に挨拶も何もなしでした。語学学校に在籍しながら大学編入の手続きを進めていて、恩師からの推薦状が必要となりました。
(今も同じか知りませんが、アメリカでは推薦状がとっても重要なのです)
高校時代の恩師には、私の母が推薦状を書いていただけるよう母校にいってくれたのですが、まさか京都まで挨拶にいって欲しいとはいえません。

先生は朝が早いのを知っていたので、時差を計算して日本時間の朝7時過ぎに先生のご自宅に電話しました。電話で状況説明を、それもものすごい勢いでして、普通だったら面食らうような話を受け入れてくださって
「で、あなたは今、どこにいるの?」
「アメリカです!」
という会話があったのを、今でもよく覚えています。
「とにかく必要書類を送ってきなさい。」
とお返事いただき、届いたらすぐに書いて送ってくださったのでしょう、ビックリするくらい早く、アメリカの大学から推薦状到着したと連絡が届きました。
別途、先生からは推薦状を送ったと手紙が届きました。詳しい内容は忘れたけど、とても励まされたことは記憶に強く残っています。実家で探せば、先生の手紙が残っているかも。

無事に大学に編入し、休暇で一時帰国したとき、先生に挨拶に行きました。
アメリカの大学生活(って、勉強の話ですが)を愉快そうに聞いてくださり、
「大学を卒業してアメリカから戻ってきた時、どこかの学校なり研究所なり、ポストがあればいいのだけど現状じゃ難しいだろうなぁ。。」
と、先生はその後の進路を心配しておられました。
私がアメリカにいる間に退官されたこともあり、それが、先生とお会いした最後になりました。

紆余曲折あって、今はアメリカで勉強したことと関わりない世界にいる自分を、ふと認識した次第。

他にも先生のことは、いろいろ覚えてますが、非常に個人的なことですのでね。
8年前に「どうしようもないはなし」というタイトルで、先生にまつわる思い出話を書いてましたので、この話を読んで先生のことをご存知の方はクリックして以前の話、それもタイトル通り「どうしようもないはなし」も読んでやってください。

いつもダンディで、先生のお部屋ではパイプを吸っておられ、当時20代前半だったのに着いていくのが大変なくらい歩くのが速かった先生。
こうやって書いてみると、思い出は尽きないですが、心より冥福をお祈りしています。
3月にある追悼会で、久しぶりに母校まで足を運ぼうと思っています。そして、先生を偲んで、「Georgia on my mind」を吹きましょう。