チャンスの女神 Part II

<Emmery Annexの過去ログ>

少し前に「チャンスの女神」について書いたばかりですが、私の中で消化不良な部分がありました。

目の前をチャンスの女神が通りかかったら、自分からチャンスをつかみにいくことなしに何かが変わることはない、という基本は変わらないのですが、このチャンスは自分から探し追い求めても女神に出会えるとは言えず、どちらかというと、「果報は寝て待て」の諺じゃないけれど、女神が通りかかるのを待つしかない、という思いがありました。だから、チャンスをつかみにいけ、とは書いたものの、つかみに行く前にチャンス到来を待て、とは何だか矛盾するなぁ、と、ひっかかる何かを感じていたのです。

そんなところ、内田樹と池上六郎の対談集「身体(からだ)の言い分 」を読んでいたら
「チャンスはつかむものではない、やってくるものである」
という章があり、「???」と思いながら読み進めたら、

池上 チャンスを自分から獲得しようと思っても、できないからね。
内田 向こうから来るから「チャンス」というわけで。

というくだりがあって、やっぱりそうか、と思ったわけです。

この章そのものは、仕事の選び方に関するお話だったので、内田樹
他の人はいったい自分に何を求めているのか、自分はこの社会でどんな仕事ができるのかということをいつも考えている人の前には自然にドアが開くし、梯子も下りてくる。どんなことをやったらみんなに喜んでもらえるのか、自分の個性や力量は、どんなかたちでみんなの役に立つのかということをある程度集中的に考えていないと、そういうことは起きないんです。

中略

若い人で「扉が開いた」そのチャンスの時に、ぴょんと飛び込む人ってほんとに少ないんですよ。ほとんどの人は扉が開いた時には、おびえて後ずさってしまう。
「ぼくにはまだそんな準備はできていませんから」とか遠慮して。

と語り、それを受けて池上六郎が
いやなものだけやめたら、向こうからやって来るから。
これだけはぜったいいやだ、ということだけ、それはやりません、と決めて、あとのことを何かしていたら、向こうからドアは開くわけですからね。
一歩そこに入るか入らないか。

と語っています。

チャンスは、意図からは生まれない運命の変わり目。
やってくるのを待つ必要があります。
前にも書いたように、チャンスは本人がまだ準備不足だと思っているときにやってくるもの。
「女神の前髪をつかむ」、「開いたドアに一歩足を踏み込む」
表現は違えど、チャンスは向こうからやってくるもので、生かすも殺すも自分次第、ということに代わりはありません。

共振の月15日 KIN25/本能を普遍化する 赤い水晶の蛇