エディット・ピアフ

雨の月曜日の晩、敷島シネポップで「エディット・ピアフ 愛の賛歌」を見てまいりました。

ハハが、シャンソンをたしなんでいるうち、時々ステージでも歌うような歌手(!)になってしまったため、シャンソンは受動的に聴いております。
先だっても、ハハが出演するライブを見に行ったところでしたので、映画の中で使われている歌が、あぁ、これもピアフ、あれもピアフってな具合でございました。
そんな都合、エディット・ピアフについて多少の知識はあったのだけど、この映画はそんなものを脇に置いて楽しめました。

エディット・ピアフを演じたマリオン・コティヤールが素晴らしかったです。
若い時から亡くなるまでを演じていたのだけど、役柄ではない彼女の写真を見てひっくり返りそうになりました。
うーむ、ピアフがのりうつっていたのかも。
ちなみに歌うシーンは全部、本物のピアフの歌に吹き替えられているそうです。

ストーリーは時系列ではなく、彼女の一生の恋を中心にすえて、彼女が死ぬ間際に自分の一生を走馬燈のように見ている感じ。
「事実は小説よりも奇なり」と言うけど、本当に激動の人生。
何度も大切な人から引き裂かれて、事故にあったり、病気になったり。
苦悩を全て歌うことで昇華し、生き抜いたんですねぇ。

ピアフは強いけど、その強さの分だけ内面はとっても脆い。日本語で言うところの「ナイーブ」、かな。(ちなみに、なんだけど、英語で「naive」って「幼稚」って意味合いになるんでご注意を。)
子ども時代と少女時代と、それぞれを演じた女の子たちは、とってもピュアで無垢な感じがした。
ストリートで歌っていた時も、決して計算なんてしてない無垢さがあり、恋をしている時は、まさに少女のような顔をしていた。
どんなに激情していても、それは彼女の心からのものであって、どこか純粋さを感じさせた。彼女の思うがままの激しい生き方そのものがアートだ、とも思った。シャンソンって、その人の生き様を歌うものってイメージがあったのだけど、それは、ピアフが歌うシャンソンのイメージだったのかもしれないと思った。

映画が終わった時、誰かが席を立つどころか、誰もが身じろぎもせず、しばらく劇場内が水を打ったようにシーンとしてたのが妙に印象的でございました。