言葉がなくても、私は存在する

タイトルがいきなり前のエントリの「ことばを造ることによって人々の意識の覚醒ができる」と矛盾してますね。これは伏見憲明さん「変態(クィア)入門」の解説で中村うさぎさんが寄せたもの。気に入ったのでタイトルにしてみました。

本当は長い長いエントリになるだろうけど1回で終わらせるつもりだったセクシャリティ放談、かなり精神的に辛い日々が続いた為、怠慢に延々と続けてしまい、当初書こうと思っていたことからかけ離れてしまいました。もっと真面目なことを書く予定だったのだけど、自分の中の苦しさがにじみ出しながら、ちょっと聞いてよ的なものになってしまいました。その辺りは反省なんだけど、まぁ、仕方ないですね。
もっと過激な言葉でもっとえぐるようなことを書こうかと思ったけど、やっぱりここではできないですね。怖々と上っ面だけ書いた部分がかなりあって、いまいち何を訴えたいのか分からない内容になったという反省もあります。
本気で書くなら、精神世界やスピリチュアルなことを専門で書くためにAnnexをはじめたみたいに、別blogにでもしないとね。

先に紹介した「変態(クィア)入門」の解説の中で、中村うさぎさんは伏見憲明さんのことを
「何の違和感もなく自分の性別を受け容れ、異性に欲情し、自分を『普通』だと思っている」人々、そして「普通じゃない人間は気持ち悪い」とか「普通じゃない人なんて、この世にいるのぉ?」なんて思ってる人々に対して、「いるわよ、ここに!そもそも、あんたの言う『普通』って何なのさ?」
と問いかけた人、と表現している。

『普通』ってスリリングな言葉だ。
生まれてこのかた、ずっと自分は『普通』じゃないと感じてきた私にとって、自分を『普通』だと思ってる人に、
「あんたの言う『普通』って何なのさ?」
と問いかけるというくだりにグッときた。
私が1週間以上にわたって、ぐだぐだ書いてきた根底には
「あんたたちの言う『普通』って何?」
という怒りや憤りがあります。

知ってる人は知っていることだけど、私は『普通』という言葉にかなり敏感。
くっだらない話をしていても、何かの拍子に
「その『普通』って何?何をもってそれを『普通』というの?誰が決めたの?」
などと、私にかみつかれたことがあるオフの知り合いは何人もいるかと思う。
先だっての見合いでも母に、
「30歳も過ぎて、普通のバッグを持てないの?」
と言われて、
「『普通』って何を持って『普通』というのか分からない。」
と答えて、絶句させたばかりではある。

30歳過ぎて未婚、結婚に焦りなし、仕事ばっかりで出会いを求めようとしない自分を「フリーク(freak=異常)」だと自嘲してきた。
変態を表す元々は差別的な「クィア」という言葉を逆手にとって自称することで、 自らの立場をポジティブに捉え直す動きがあるように、普通じゃないって意味の「フリーク」を自称することでポジティブになれるかも、かも?
私の性的指向の揺れも含めて、ね。

件の「解説」の最後で中村うさぎさんは、
だけど、私は身体で知っている。性に「これが普通で正解だ」なんてぇものは、ないのだと。どんな言葉にも規定されない「性」が無数に存在して、私もあなたも、そのなかのひとりに過ぎないのだ、と。
という文章でしめている。

久しぶりに読み返した「変態(クィア)入門」の巻末の中村うさぎさんの文章に胸がすく思いをした。本当にその通りだ、と。

まぁ、これで長々と、振り返ってみればあまり意味のないセクシャリティ放談、まさに「放談」でしたけど、一つの区切りとします。次に書くときは、もうすこぉし実のあることを書きたいという反省を含め。