思わず我が身を振り返り
今時、「婦人公論」なんて雑誌のタイトルはどうかと思うけど、
時々買って読んでいます。
結構、読者からの投稿記事がなかなか面白いんだ。
今回買ったのは、森光子さんが表紙の9月7日号の「婦人公論」
中島らも氏の奥さんがらも氏について語った記事と
障害者向けデリヘル嬢の手記
に関心があったから。
もちろん、興味深かったのだけど、それよりも私を揺さぶったのは、
<"伝説の男"の娘に生まれて>
というサブタイトルのついた
ガッツ石松と彼の娘の鈴木祐季の対談。
私と同じ歳の娘さんがいたのですね、ガッツさん。
娘が結婚したいと連れてきた男性を否定も肯定もしなかったけど、その人の生き方に共感できなかったから、
「好きなら一緒になれば良いけど、結婚したら俺の家族にはもう入れないよ」
と言ったのだそうな。
結局、祐季さんはその時の彼とは別れたとのこと。
同じようなセリフを私も以前、父から聞きました。
「好きなら一緒になれば良いけど、そうしたらもう家族じゃない」
私の場合は、結婚したがった訳じゃなかったけど、
それがもっと両親の怒りに火をつけた。
私は、親の言うなりには絶対になりたくない、
と頑なになり、家を飛び出してはみたものの、
その時の彼氏の態度にも煮え切らないものを感じて、
「別れたふりをして交際を続ける」
という、八方美人な選択をしてしまいます。
それから、もう3年が経過。。
今となっては、良い決断だったのかどうだか悩みます。
でも、親の良いなりには絶対にならない、という
どす黒い怒りの炎のようなものが私の心の奥底にあります。
隠れて、といっても、今は遠距離なので、そう会うこともなく、
別れるにもお互いに別れられない心の弱さがあって、
多分、第三者から見たら病的かもしれない。
父の言葉に付き合っている男性のことを鑑みて、別れてしまった娘と、
別れないでこっそりつきあいを続けることを選択した娘。
どっちの選択が正しい、なんて正解はない。
私の場合は、父のセリフだけじゃなくて、母が半狂乱になりましたから、
ガッツさんところとはちょっと違うと思う。
その時のお母さんの反応も記事にあれば、なお良かったのにな。
話題にもあがらなかったのでしょうか。
時々買って読んでいます。
結構、読者からの投稿記事がなかなか面白いんだ。
今回買ったのは、森光子さんが表紙の9月7日号の「婦人公論」
中島らも氏の奥さんがらも氏について語った記事と
障害者向けデリヘル嬢の手記
に関心があったから。
もちろん、興味深かったのだけど、それよりも私を揺さぶったのは、
<"伝説の男"の娘に生まれて>
というサブタイトルのついた
ガッツ石松と彼の娘の鈴木祐季の対談。
私と同じ歳の娘さんがいたのですね、ガッツさん。
娘が結婚したいと連れてきた男性を否定も肯定もしなかったけど、その人の生き方に共感できなかったから、
「好きなら一緒になれば良いけど、結婚したら俺の家族にはもう入れないよ」
と言ったのだそうな。
結局、祐季さんはその時の彼とは別れたとのこと。
同じようなセリフを私も以前、父から聞きました。
「好きなら一緒になれば良いけど、そうしたらもう家族じゃない」
私の場合は、結婚したがった訳じゃなかったけど、
それがもっと両親の怒りに火をつけた。
私は、親の言うなりには絶対になりたくない、
と頑なになり、家を飛び出してはみたものの、
その時の彼氏の態度にも煮え切らないものを感じて、
「別れたふりをして交際を続ける」
という、八方美人な選択をしてしまいます。
それから、もう3年が経過。。
今となっては、良い決断だったのかどうだか悩みます。
でも、親の良いなりには絶対にならない、という
どす黒い怒りの炎のようなものが私の心の奥底にあります。
隠れて、といっても、今は遠距離なので、そう会うこともなく、
別れるにもお互いに別れられない心の弱さがあって、
多分、第三者から見たら病的かもしれない。
父の言葉に付き合っている男性のことを鑑みて、別れてしまった娘と、
別れないでこっそりつきあいを続けることを選択した娘。
どっちの選択が正しい、なんて正解はない。
私の場合は、父のセリフだけじゃなくて、母が半狂乱になりましたから、
ガッツさんところとはちょっと違うと思う。
その時のお母さんの反応も記事にあれば、なお良かったのにな。
話題にもあがらなかったのでしょうか。