共鳴

しゃちょーがまた、どこぞの本からのテキストを社内のイントラに
アップしておられ、私はまたしても朝から目が点になっていた。


恋とは、
魅力的な人に出会ったときに始まるのではない。
嫉妬を感じたときに「落ちる」のである。

失いそうになってはじめて気づくのが、恋である。
奪われる前に気づき、相手の存在に感謝し続けることを、
愛という。




最近、なんでしゃちょーが立て続けにこんなテキストを社内イントラに
アップするのか、私には理解しがたいのだけど。
とか言いながら、なんとなく考えさせられてしまったのでした。




「恋はするものではなく、落ちるものである」

確か、本屋さんで平積みになっていた江國香織「東京タワー」の帯に
そう書いてあった。

恋は理屈ではできない。
一種の野性なんじゃないかと私は思う。
そして最近、物事に熱くなれない低体温の人間が増えていると聞く。

TMRの西川くんが「HIGH PRESSURE」で
空調のききすぎた この部屋じゃ 発情も逃してくよ 
って歌ってるけど、頭脳ばかりが発達しすぎて野性を失った低体温の人間じゃ、
恋はできないんじゃないかと。

セックスレスのカップルがセックスレスを解消するために二人で休暇をとって
二人きりで旅行に行くとしても、NYみたいな都会に行ってはいけないという。
知的な刺激が多すぎるから、セックスがなくても大丈夫なんだと。
何もない南の島に1週間もいけば、することがないから本来の人間性(野性?)
を取り戻すんだって。





このテキストを読んで、過去の自分を思い出していた。
あの「落ちた」感覚は「嫉妬」だったのか?と。
出会った時から自分の立場は重々承知していたから、誰かに妬いたつもりはない。
もっと早く出会っていたらとか、そういうのも全然なくて、分かっていながら自分を
制御しきれなかった「過失」だと思ってた。
そして、それが「恋」というものなのだろうと。

何もかもが過ぎ去った今、落ち着いて振り返ってみたら「落ちた」んじゃなくて、
自分ではない他の人に恋をしている相手に共鳴していただけのような気がする。
共鳴しすぎたあまりに、相手の感情を自分のものだと勘違いしていたんだろう。
そう思うと、いろんなことに合点がいく。

私自身の感情だと思ってさらけ出した時、「心の内を見透かされているようだ」と
何度となく言われたこと。
「そうじゃないよ。私のことなの。」と、戸惑ったとき、
頭の片隅で「?」マークが点滅していた。
もしかしたら、この感情は私のものじゃなくって相手の感情を
私が共鳴して身体で響かせているだけなのか?
100%そうだった、とは思わないけれど、ほとんどがそうだったのだろう。
そして、感情の共鳴を自分自身から作り出されたものだと勘違いしていた。




「失いそうになってはじめて気づくのが、恋である」ならば、最初から私の
手につかみ取れるものは何もなかったから、失いそうになるどころか、
失うものがなかった。水を抱くような、実態のないものだった。
ということは、恋じゃなかったと言えるのかもしれない。

「奪われる前に気づき、相手の存在に感謝し続けることを、愛という」のなら、
最初から奪われるものもなかった。でも、相手の存在に感謝し続けている。
出会った時から、感謝の気持ちを失ったことは一度たりとてない。今、この瞬間も。
ならば、これを「愛」と呼ぶのだろうか。
人間として、友人として、普遍的な意味合いで「愛」なのであろう。
ただし、その前に「恋」はない。




・・・少し、いや、かなりマジメに書いてしまいました。
こういうことは、社内イントラに感想としてアップするのが筋なんでしょうけど、