プロセスの中に

<Emmery Annexの過去ログ>

「癒しへの過程はどうしてこんなに苦しいのか」
「苦しいと分かっていながらどうして取り組んでいくのか?」
「大変なことを乗り越えたいのなら、むしろ放っておいたほうが、忘れてしまった方が良いのではないか?」

年齢やその内容を問わず、虐待を受けた人たちが意識して癒しや快復の道のりを歩もうとする時、その過程は楽なものではなく、むしろつらいことの方が多いものです。

もし大切な人が子どもの頃に性虐待にあっていたら―ともに眠りともに笑う 」に
「快復は誰にとっても気楽で心地良い選択ではありません。」とあり、癒しや快復への道、という響きは良くても実際はそうじゃないんだって

バイバーが虐待について話し始めると、部外者には課題に注意を向けることが諸悪の根源のように思えるけれど、「傷にしばらく焦点を合わせることが、実際にその課題を乗り越える唯一の方法です」

傷に焦点を合わせる、は、自分自身と向き合うこと、とも言えるでしょう。
それができない時は、無理に向き合う必要はありません。
待っていれば、その時がきます。
癒し、快復への道のりは決して楽ではない長い長いプロセスです。
焦る必要はまったくありません。

「快復の目標は痛みを乗り越え、これまで光が当たらなかった人生の他の部分を発見することです。」とあります。

エレン・デイヴィスの著書、「生きる勇気と癒す力(The Courage to Heal)」を「地獄行きの乗り物(The Carriage to Hell)」ともじったエピソードは、言い得て妙です。
自分を癒せるだけの力を持ち得て、その道を歩み始めた時、その道の先は輝ける世界ではなく、むしろ暗黒の世界が待っています。まさに地獄行きです。でも、それがずっと続くわけではありません。本当に苦しいけれども、その苦しさは一生続くわけでもありません。明けない夜はありません。
いったん、地獄まで行ってしまったとしても、単純に「天国行き」となるかどうかは別として歩み続けるといつからか地獄行きだったはずの道が、光に満ちた新しい世界への道のりへと変わっていることに気づくはずです。
一度、光に溢れた世界へと足を進めていても、時としてまた地獄方面に足が向くこともあります。
でも、それは失敗でも停滞でもありません。
癒しも快復も一直線ではありません。
ぐるぐるとらせん階段のように巡り巡っているのです。
1つ乗り越えたら、また1つ課題が出てきますが、つらいながらも一つ一つ乗り越えていくうちに、気づくと一回りも二回りも大きくなった自分に気づくはずです。