履修漏れ

現在、世間で何かと話題になっている高校の必修授業の履修漏れ、
私も母校を思い出してヤバイんじゃないかと思っていたら、
やっぱり、しっかりとリストにあがっていた。
そして、現校長が責任をとって受ける予定になっていた褒章を辞退したらしい。
そんな記事を新聞で発見した。

私自身が通っていた頃もあったのだろうか。
私は普通科ではなかったから、ちょっと変わった授業があった。
文系だったから数学も理科も1年の時しかなかった。
受験に関係なくても1年は数学も理科も受けなくてはいけない、
と言われていた。
理科の先生がヤル気ない私たち生徒に向かって、
受験に関係ない授業は受けたくないと思うかもしれないけれど、
必要な授業だけしか受けないというのはおかしい
なんて言ってた記憶がある。
受験と関係ない学問は教養を広げるものである、みたいなことも言ってたかな。
私は理数が全くダメだったから成績は惨憺たるもので、赤点まで食らったのだけど
受験に関係ないから、と、お咎めなしだった。
架空履修は90年代から行われていたらしいから、私はキワキワってところか。

母校は進学校だから一日7時間授業で、夏も春も補講がある。
終業式の翌日から補講が始まるから、終業式なんて意味ないやんって、いっつも思ってた。
私はとってもマジメだったので、学校の授業と補講だけで、後は家で通信講座をやるだけで
家庭教師も予備校もお世話にならずに大学に現役で入ったから、学費は高かったけど、
無駄じゃなかったって両親は言っていた。
高校時代って、延々と学校で勉強をしていた記憶が強い。
そんな中、現役の生徒は履修漏れの補修を、しかも3年生は受験のハイシーズンになろう
というこの時期に受けるのかと思うとかわいそうとしか言いようがない。
生徒には罪はない。学習指導要領を守らなかった学校が悪いとも言い難い。
大学に入ることしか目的としていない勉強しかしない風潮が罪作りなのだと思う。

内田先生のブログ日記「教育破壊はどこまで続くのか」によると、
世界史をネグレクトしたケースが多いらしい。
おぉ、私は受験では世界史を選択していたよ。
世界史は頭にはいるのに、日本史は、からきしダメだったんだ。
私がいつも疑問に思っていたのは、中学も高校もだけど、世界史も日本史も
古代はすっごく丁寧にやるのに、時間が足りなくて近現代、特に現代は
すかーっとスキップしてしまうこと。
古代も大切だけど、いろんな世界情勢を理解するには近現代の歴史の方が大切だと思う。

世界史を履修し、受験科目としても選択していたくせに、内田先生のテキストで
以下の部分を読んだ時、そのうち2つしか知らなかったので焦った。

大学生諸君が世界史の年号どころか世界史的事件について話しても、
みんな「きょとん」としているのを不思議に思っていたが、そのせいであったか。
「ウェストファリア・システム」と言っても誰も反応しない。
米西戦争」というようなものがあったことを知らない。
「ハワイの併合」の事情を知らない。
「フィリピンの独立宣言がアメリカ下院でなされたこと」も知らない。
インドシナ半島をフランスと日本が共同統治していたこと」も知らない。


今時は、ネットで検索をすれば何でも知ることができる。
そんな風に思っている人が多いと思う。
大学院卒のイトコが、
「最近の学生は、何でもネットで調べて、ネットでなかったら存在しないって思ってる。
もっと足使って調べろ、図書館に行って書物を調べて読めって言っても理解しない」
って、言ってたのはもう3年以上前のことだと思う。
今は当時以上にネットさえあれば、と思っている人の方が主流なんじゃないかと危惧する。
どんなにネットが万能でも、学ぶって検索で知ることだけじゃないって思うんだ。

内田先生はこんな風に書いてる

勉強なんかしなくても、必要があればネットでなんでも調べられると
豪語する若者がときおりいるが、私はそういうものではないと思う。
検索するためには検索のためのキーワードを知っていることが必要だ。
しかし、そのキーワードそのものを知らない事項については、検索することができない。
「学ぶ」というのは、キーワード検索することとは別のことである。
自分が何を知らないかについて知ることである。
自分の知識についての知識をもつことである。
それは「知識をふやす」ということとは違う。


本当にその通りだと思う。
私はアメリカで学生生活を過ごした都合、一応英語が操れるし、
それを武器に仕事をしている訳である。
「なんでも聞けて話せるんでしょ」
ってよく言われるのだけど、それは違う。
「自分の知識がない分野は英語で聞いても分からないですよ。
例えば物理の研究に関する話を日本語で聞いても分からなことが多いでしょ?
それと同じで、自分の中で知識がないものは英語でも日本語でも聞いても分からないし
話すこともできないですよ。言葉なんて、ただのコミュニケーションの道具でしかなくて、
大切なのは語る内容が何かってことなんですよ。」
と、いつも答える。
たいていの人は、分かったような分からないような顔をする。
まぁ、要するに、英語だったら何でも分かるって訳じゃないってことを
理解してくれたらいいのさ。
知らない分野の翻訳は苦労するし、通訳なんてもってのほかだもの。

学校というのは子どもに「自分は何を知らないか」を学ばせる場である。
と内田先生は書いてるのだけど、その通りだと思う。
受験勉強の時は、大学に入るのに必要な知識さえあればって思うけど、
関係ないことも、苦手だからやりたくないと思うことも、受けなくてはいけないから
受けることで何かを学ぶし、知識に厚みを持たせることができる。
受験に関係ないから、会社に入るのに関係ないから、という理由で必要ないと見なされ
切り捨てられていく学問が多数増えて、「知らないことは知る必要のないこと」と感じる
人たちが増えるのは怖いことだと思う。
それは自分の世界の中でしか他人を理解せず、自分の世界にそぐわない人は
排除してしまうということに通じるから。