自然、そして神

伊勢滞在中に、フリー・ジャーナリストの大高未貴さんのお話を聞く機会がありました。
彼女は大学卒業後、旅行代理店に就職し、研修で訪れたイスラエルで、「こんなことをしている場合ではない」と会社を辞めてしまい、それから中近東、アジアを中心に世界40ヶ国以上を一人で放浪した人です。
いつだったか世界を放浪している間のレポートを雑誌で読んだことがあって、自分とそう年齢の変わらない女性が一人で世界を放浪していることに感慨深いものを持った記憶があり、名前は覚えていなかったけれども、彼女の存在は胸に深く残っていました。
本当に短い時間でしたが、その彼女と予期せず対面する機会を持つことができたのです。世界を放浪してきた彼女が今一番目が向くのは、アジアでもアメリカでもアフリカでも中近東でもなく、自分の母国である日本です、と言いました。世界を渡り歩いた人が今一番注目するのが日本であることに驚きました。

彼女の話は、実体験に基づいたものなのでとても興味深く、ひきこまれました。
中でも一番興味深かったのは、

自然と闘わないといけない場所には神さまだって住みたいとは思わない。
逆に日本のように気候が穏やかで自然が豊かな国なら神さまだって住みたいと思う。だからこそ、言葉の通り「八百万の神」が日本に集まっている一神教は、自然と闘わないといけない国のもので、ヨーロッパ諸国が言う『自然との共存』は傲慢だ。日本は自然と共存するのではなく、自然に生かされ、自然に感謝を捧げながら生きてきたから『自然との共存』なんて言葉は使わないんだ

という話と

「日本には神がおわす」

という言葉でした。

伊勢で何度となく
「ここには確かに神がおわす」
と心から感じる瞬間がありました。
「神がいる」じゃなくて「おわす」なんですね。
その「神」は天照大神月讀尊というように特定の神を感じるのではなく、大きな存在としての「神」を感じました。
世界のあちこちで、自分の信じる神さまが絶対だ、ということで争いが起こっています。
古来から八百万の神が共生してきた日本に住む私には、自分の信じる神さまのことで争う意味が分かりません。
前に「神さま、神さま」というエントリでも
「たったひとりのほんとうの神さま」のことで争うなんて、
なんて愚かしいのだろうか。
と書きました。
神を信じる、信じないじゃなくて、神はただ大きな存在としてそこに「おわす」のです。ただ、その感じ方が個人で違うだけなのに、自分の感じ方を他人にも押しつけ争いが起こるのは本当に悲しいことです。
「神がおわす」と感じたときの心からの感謝と幸福を思い出すたび、神さまを巡る争いが起こっていることに胸が痛みます。そして早く、そんな争いが無くなることを心から祈ります。

電気の月17日 KIN176/大胆さを呼び起こす 黄色い共振の戦士