嫌悪感と感受性

<Emmery Annexの過去ログ>
以前、「身体は嘘をつかない」というエントリを書いたことがありますが、近頃これを体感しています。

自分の気持ちや心に嘘をついて、自分をだますことはできても身体に嘘は通じません。自分に嘘をつき続けたり、感情を出さずに我慢すると、身体に病気や痛みとして表出してしまいます。

そんなことは百も承知だったですが、社会におりますと、どうしようもないことがあります。なんとか自分に言い聞かせて・・と取り繕っていたのですが、遂に身体が拒否反応を示して発熱してしまいました。
ずっと「イヤだ、イヤだ」と思っていたのですが、自分のワガママではないのか、という思いもあり、自分で自分に言い聞かせて何とかしようと思っていたのですが、そんなレベルではなく、心底イヤなんだ周りが何と言って私を説得し納得させようとしたとしても、身体がこんなに嫌がっているのなら、これ以上自分に嘘はつき続けることはできない、と、こちらも身を盾にしてやるしかありません。

ただ、嫌悪感を持てということそのものは悪いことではなく良いことらしい、と内田樹さんと三砂ちづるさんの対談集「身体知-身体が教えてくれること 」を読んで思いました。
何かが「イヤだ」という感覚こそ身体知のいちばんのベースであり、嫌悪感は大切なんだと内田樹さんが言ってます。少々長いですが、引用します。

「イヤだ、イヤだ」と言っているばかりじゃ日常生活ができませんから、そのイヤさを感じないように、ふつう人間は感受性を「オフ」にして対応するわけです。不快な感覚を遮断するというのは、生物の生存戦略の一つですから、それはそれでいいんですけど、危険なのは感覚遮断というのは、選択的にできない、ということです。不快感を感じないように感受性の回路をオフにするということは、同時に快感を感じる回路もオフになる、ということですからね。不快を避けて感覚遮断すると、感受性の回路は全部いっしょに切れてしまう。切ったつもりじゃない感覚も切れてしまう。だから、身体に
とって不快な入力を「感じないようにして耐える」という戦略はすごくリスキーなことなのです。

イヤだと感じているうちは、感受性の回路をオフにしていない、という意味では良いことだと言えます。なんだか皮肉みたいなんですけど。

水晶の月13日 KIN164/気づきをかたどる 黄色い銀河の種