勝手に内田的恋愛論その6

一応、今回で「勝手に内田的恋愛論」の本編は終わります。
結局のところ、予定よりも1回増えてしまいました。
休憩(?)をはさんだ後半は、恋愛の話から離れてしまいました。
書きたい志向そのものが変わってしまったもので。。

最終回は、「誤解の幅」。

私たちは「理解し合いたいけれど、理解に達するとコミュニケーションは終わっ
てしまうから、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」ということから
コミュニケーションにおいて意志の疎通が簡単に成就しないように、いろいろ
仕掛けがあると内田先生は書いておられます。
コミュニケーションと言えば、円滑に進行するように工夫するのが普通なのです
が、うまくいかないように工夫するのはおかしな話です。

一つの例として、「あべこべことば」を挙げておられます。
日常でよく使う言葉にまったく正反対の意味を持つ言葉があります。
「適当」とか「いい加減」とか。。
「適当」って、「ぴたりと適切な」という意味と「ポイントが多少ずれている」
という意味の両方がありますよね。私たちはどちらの意味か、前後の文脈から
判断する必要があります。聞きようによっては、間違いなく誤解してしまいます。
でも、それが大切なことらしいのです。

コミュニケーションはつねに誤解の余地があるように構造化されているのです。
うっかり聞き違えると、けっこう深刻な影響が出るように、ことばはわざと
わかりにくく出来上がっているのです。

私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるのは、そこに「誤解の幅」
と「訂正への道」が残されているからです。

私たちが聴いて気分のよくなることばというのはいくつかの種類がありますが、
そのすべてに共通するのは(誤解を招く表現ですが)、そこに誤解の余地が
残されているということです。

わからないけれど、何か心に響く。「たしかに、そうだ」と腑に落ちるのだけれ
ど、どこがどう腑に落ちたのかをはっきりと言うことができない。だから、繰り
返し読む。そういう文章が読者の中に強く深く浸透するのです。


人間は、「相手がいる」ことを想定しないと、何もできない。
「相手あっての」ということは、逆から言えば、サービスする側にどれほどの
「心づくし」や「心遣い」があっても、それが相手には伝わらないリスクを含んでいる
ということです。全ては相手しだいなのです。
そして、信頼されている、あるいは解釈を委ねられているという負託の感覚を
受け手が覚えることで主体的な関わりが始まるのです。受け手が正しく
相手のことばや文章を理解するというよりも、受け手が錯覚したり、誤解したり。。
それでかまわないのです。
正解とは、理解に達するということ、理解に達するということは、コミュニケー
ションが閉じられるということ。


・・なんとなく、分かればいいってもんじゃない、というのが、分かればいい
って感じですかね。
私の拙い読解力と文章力では、きっと「先生はえらい」そのものを誤読して
誤解したままを書いてるんだと思うのです。
でも、まぁ、それもありなんだな、と、これまた勝手に思ってます。
で、何が結局言いたかったのさ、と思う人は「先生はえらい」を買うなり
図書館で借りるなりして読んでみてください。
結局のところ、そういうオチかよ、と言われそうだけど。本を1冊丸ごと
書き写す訳にもいきませんからね。
本を読んだ方は、私の今回の抜粋の仕方に驚かれるに違いありません。
それもまぁ、誤解の一つということで。